子どもたちに対する教員の指導には毎日、根気強く続ける指導と機会をとらえて行う指導があります。
その指導については教員同士の共通理解が図られていますが、時折、指導のズレや迷いが生じてしまうことがあります。
今回は、2つの例をあげながら、その指導の先にあるものについて考えてみたいと思います。
1 たかが挨拶、されど挨拶
学校生活に関するアンケートを行うと、次のような現象が見られることがよくありました。
教員の回答・・・・「子どもに挨拶を行わせる指導を充実させていきたい。」という意見が多数
※率直に言うと、子どもの挨拶は十分にできていない・・・
子どもの回答・・・「挨拶はできていると思う。」という意見が多数
なぜ、このような現象が起きているのか?
それは。(自分自身の反省も含めて)先を見据えての指導ができていなかったからです。
挨拶を子どもに頑張らせたいと、教員が率先して、子どもに挨拶をします。
子どもも挨拶を返します。(反射的に)
この繰り返しが、アンケート結果となって表れたのです。
ここで大事なことは、「コミュニケーションの第一歩」である挨拶の大切さを、子どもにどうやって指導するかということです。
【実践例】
・挨拶の大切さを子どもに教える標語をつくり、学校全体で指導する。
『あいさつは、まず自分から、あいてにきこえる大きさで。』
「自分から相手の方に挨拶できること」、「相手の方に聞こえる大きさでできること」を指導のポイントにすることで、大人になっても本人の財産となる挨拶の習慣が身に付くと、私は考えます。
校舎の中で、相手の耳が痛くなるほど大きな声であいさつをしても指導の先の目的からは外れてしまっているのですね。
2 この先生の言っていることは、正しいと思いますか?
ある学校で若い同僚にこのような話をしました。
以前、私が勤務していた学校で、ある日、突然にドクターヘリが舞い降りることがありました。
近くで怪我をした方がいて、遠くの病院まで救急搬送をするとの連絡が各教室に入りました。
子どもたちは救急車や消防車(ヘリが着陸する際、グラウンドに水をまき、砂ぼこりが舞い上がらないようにします)、見たこともないドクターヘリなどを見て、落ち着きがありませんでした。
教室では授業を行っていた各担任が子どもを落ち着かせながら、開いている窓がないか教室の中と外を確認しました。(窓が開いていると、ヘリの突風でガラスが割れてしまうことがあるそうです。)
怪我をした人はかなりの重傷のようで、救急車からドクターヘリに運ばれていきました。
大勢の人たちがブルーシートでその人の載せられたストレッチャーの周りを囲み、怪我をした方の様子をうかがい知ることはできませんでした。
その時、あるクラスでは男性教員がこう言いました。
「外を見てはいけません。もし、怪我をした人が自分の家族や友達だったら、どんな気持ちがしますか?」
また、別のクラスでは女性教員がこう言いました。
「命を救うために、頑張っている人たちの姿をしっかりと見ましょう。」
この男女2人の教員の言葉について、私は若い同僚に、問いかけました。
「男性教員の言っていることは正しいですか?」
「女性教員の言っていることは正しいですか?」
同僚は一生懸命に考えてくれました。
私のこの問いかけに答えはありません。
二人の教員の担当する教室の様子がわからないので、正解を出すことはできないのです。
そのことを同僚に謝った後、私はこう話しました。
「私はどちらの先生の言っていることも正しいと思いました。」
男性教員のクラスはいたずらな子が多く、冷やかし半分の言葉があちこちで聞こえた時、間髪を入れずに男性教員が発した言葉です。
女性教員のクラスの子たちは怪我を負った人のことを心配し、命を救うために奔走する人たちの姿を微動だにせず見ていたそうです。
子どもの実態に応じて、指導の言葉は違ってきますが、
「人を大切にする」ということでは、どちらも同じことだと
私は思いました。